家族の衰退と擬似家族そして少子化

2007.06.07.Thu

これも移行
<< 作成日時 : 2007/06/07 23:52

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せっかくブログを作った?のだからネタの数だけ増やしておこうとまたお蔵出しである。
正直いつ書いたのかも、何を目指して?書いたのかも憶えていない。
つくづくただのバカである。

作家の三田誠広が昔のエッセーでこんなことを書いていた。
友人がペンションをやっている。夏休み前になると女子大生が電話をかけてくる。
「そちらのペンションでは家庭的な雰囲気が楽しめるのか?」と
友人は答える
「家庭的な雰囲気は自分の家で味わってください」

おおむねある時期以降(たとえば吉本バナナ以降)の日本の家庭?小説はこのような屈折の中で描かれている。

家族ならざるもの同士(血縁がない)が一つ屋根の下で暮らし、いたわりと優しさにあふれた新しい家族を築き上げる。このような小説は「新しい家族像を提示した」と評価されたりもする。(たとえば本物の家族を描き続ける大江の異質さはここで際立って見える)

三田の言い方をもじって、このような作品をペンションファミリズム(PF)と呼ぼう。
このての作品は、家族が基本的にもつ厄介さがあらかじめ排除されてしまっている。
家族の厄介さは家族の構成員の基本的な性格が、家族の構成員同士の関係によって基礎づけられざるを得ないため(それは小家族によってより顕在化する)、いったんこじれると、(おおむね20年で、それがつまり個々の家族の耐用年数なのだ)それぞれの構成員の凹凸でゆがんだ(凹凸を作りあう関係こそが、家族と呼びうる関係なのだが)鏡で互いを移しあうばかりで、いわばゆがんだ鏡像を無限に反射しあう閉じた光の渦に飲み込まれるばかりになるのだ。そこでおおむね年少な者、つまり子供は外部を目指す。

PFはこの家族本来が持つ厄介さを抜きにしているため、一見さわやかで、優しさに満ちた家族像を描き出すのだが、それは家族の名にもともと値しない。ビールの苦味がどうにも好きになれない子供が苦味のまったくないビールを飲んで俺もビールが飲めるようになったと胸を張るようなものだ。苦味のまったくない飲み物はビールの名に値しない。

家族の厄介さはごめんこうむりたい、しかし家庭的な雰囲気は味わいたい。PFはそのような意思によって支えられている。井上ひさしの『青葉繁れる』では、ひとつの選択に伴う、プラスの面ばかりを受け取ってマイナスを拒否する姿勢を卑怯と定義付けているが、PFはその意味で卑怯な作品なのである。私は非難するつもりはない。原因を知りたいだけだ。

そして、このような作品が飽きもせず書かれ続けなければいけない原因は?と考えて思い当たったのが赤毛のアンだ。マシューとマリラは兄妹ではあるのだが(それにしても風変わりな、兄妹。なぜ夫婦ではなかったのかと問うときその原因としてむしろPF問題が検討されるべきだ)、この作品はPFの元祖といっていいくらい、PFと基本的な構造を同じくしている。100年前に書かれたこの物語が日本でとりわけ人気がある原因とPF問題は直結しているだろう。

アンは孤児を前提にした物語だが、多く語られるとおり、社会的な孤児は区分といっていいほどの歴史的存在である。孤児はある時期以降(おおむね19世紀前後)に存在を始め、それ以前には存在しなかった。

(孤児院が、それに先行する、動物愛護の精神に基づいた、捨て犬保護施設に倣って!!!作られたといううそみたいな話があるそうな)

両親を失った子供は、叔父なり叔母なり、祖父母なり、共同体の一員としての近所の人なりに引き取られて暮らすことが、当たり前だった時期には孤児は存在しえないのだ。
当たり前が失われた原因として、生活空間の広大化、人の移動の遠距離化がまずあげられる。二度と戻りえないほど遠くで仕事を見つけ、暮らし、子供を作った、そのようにして出来上がった家族の場合、そこで両親が死ぬと子供は周りに近親のものがなく孤児となる。(ローラ・インガルスの一家のその移動を思おう。アルマンゾと結婚し独立して、新天地を目指したローラはその後父さん、母さん、メアリーなどとほとんど顔を合わせることはなかった。もちろん新大陸?への移住それ自体の移動ということもある)

また、この問題と同時的に発生したのが家族の枠組みの変化であろう。おおむねそれ以前の家族と共同体は広く面積を共有する重なり合う円としてあリ、7歳までは神の子的な共同体的な共有感が存在し、親が子供をめぐる枠組みとして特権的なものではなかった。それが特権化されることで、両親の不在がクローズアップされることになったのだ。おおむね現在の家族もこの枠組みのなかにあり、孤児が存在し続けているわけだ。
いわば綿密な共同体の崩壊によって、家族はそれまでの家族とは質的に異なった「新家族」へと姿を変え、(この現象はどちらを原因とも特定しがたいものだが)新家族はその特有の困難を内部に抱え込むことになった。

モンゴメリーの7年前に生まれた夏目漱石(つまりほとんど同世代、また英文学への深い素養という点でも二人は共通している)の描く家族、家庭はこの困難さを良く伝えているように思われる。何かもうほとほとやりきれないといった感じなのだ。(そのやりきれなさは新しい家族像を提示したくなるPF系の作家の気持ちも良く分かるといいたくなるほどのものだ)漱石を思わせる主人公が子供たちが大事にしている鉢植えをまったくの悪意から破壊する。そして後悔する。ある臨界を超えて、それはユーモラスで滑稽でありさえするのだが、やりきれないことには変わりがない。

漱石の苦悩は、その幼少期の養子問題が原因ともっぱら推定されるのだが、養子縁組がそれほど抵抗なく行われていた、新家族以前(親子が特権的にクローズアップされることが少なかった時代)なら、養子問題が漱石にあれほどの苦悩をもたらしたとは考えにくい。また肉親との距離は漱石においては空間的なものであるとともに、精神的に広がったものとしてもある。(ロンドンに行ったきり日本に帰ってこなかったなら、それは空間的なまさしく移住の問題として顕在化しただろう)(またモンゴメリーの子供時代がそれほど幸福なものでなかったことも良く知られている)

アン同様、漱石もまた時代の子であるのだ。いっそ自分は孤児ならばという思いは漱石の願いのひとつとしてあったのではないか。そして我々も多かれ少なかれ、その思いを共有している。その想いが、赤毛のアンの人気を支える要因のひとつではないだろうか。そしてPF小説が書かれ続ける。そして漱石はいまだ現代的意味を持ち続ける。

マシューとマリラが兄妹であるのは、夫婦と子供(アン)という親子関係の回避をねらったものだと考えられるが、当時のカナダにおいてこのような初老の独身男女が実際に多かったのかどうかは残念ながら私にはわからない。おおむね昔話に登場する老人はおじいさん、おばあさんとして夫婦として描かれることが多く、また、綿密な共同体は半ば強引な見合いによってでも男女を夫婦に仕立て上げることが多かったと思われるから、初老の独身男女の登場自体、共同体の変化、新家族の登場とシンクロしているのかもしれない。
赤毛のアンは家入小説とも称されるが、その家自体すでに安定感を欠いたものとしてある。

家族を厄介だと思っている人がある割合を占める集団の、子供の数が増えるわけがない。「子供は親が育てるもの」、という当たり前は、それほど当たり前ではない。

Comments

2007-06-16.Sat 17:54
あー私、個人的にはペンションってあんま好きじゃないなあ。
「ふれあい」前提っぽいところがいまいちノリきれないのよねー。

ドアに「お掃除しておいてくださいね」「起こさないで下さい」って引っ掛けておく欧米式のホテルの方が寛げます。

ペンションの寄せ書きノートを読むのもだし、そこに何か書くのもいまいちノリきれん。
ここで「あー私って妙に斜にかまえてて可愛げないなあ」
とか思わないし、
「ま、いいんじゃん?ノリたければ乗ってナンボ、
ノリたくなければ無理して乗らんでもべつにDOでもEんじゃ〜ん?」

こういう短絡的な納得の仕方をしないと、
厄介な家族と折り合うなんて不可能っすよ。www

家族っていうか、キャパの問題ね。
キャパをオーバーフローしちゃえば「はい、そこで終わり」だし、
オーバーフローしなければ「え?全然余裕ですよ?」だもんね。
オーバーフローの臨界期には、
背後に色々あるでしょう。
何も無いところから「有」は生まれないと思う。
URL|P君 #dNm2mw72[ 編集]

2007-06-16.Sat 17:55
まあ、しかし、マシュウとマリラが夫婦だったら、あの物語の魅力は半減、4分の一位になったのもたしかだね。

あの微妙な距離感。夫婦だったら、アンの苗字を変えることになったかもしれない。夫婦だったら、マシュウが主人として、もっとアンを教育?しようとしたかもしれない。
URL|イオ #O5mp8qzk[ 編集]

2007-06-16.Sat 17:55
なにー!!!
500字以内。ミクシーより短いじゃん。
ゆ、ゆるさん!!!

『続き』
そうなると、アンを育てることの主導権をとったマリラが厳しくしつけようと思いながら、アンに「なつかれて」戸惑いつつ、暖かい気持ちになるところや、徹底してジミにそっと見守るマシュウ(大活躍するのはアンに服を仕立ててやるときくらい?あのオバサンにこっそり頼みにいくところが好き)といったものが、むしろ不自然なものになっただろうから。

ああ、どうでもいいけど、どうしてダイアナをクイーンズ学院?に行かせてやらなかったかな、モンゴメリーは。
キャラを明確にするためか、離れていても「忠実なる友」といったことかしらん。
『大草原シリーズ』のメアリーの失明ほどではないけれど、ちょっと悲しい筋立て?でもある。

クゥー、どうでもいいけどペンションなんか行ったことねえや!そもそもペンションがあるような風光明媚かつおしゃれな場所に、足を踏み入れたこともない。
太陽もそよ風もダイッ嫌いだ。
URL|イオ #O5mp8qzk[ 編集]

2007-06-16.Sat 17:56
わはは(^▽^)500字制限なんですねー。
了解っ☆←こういう絵文字で貴重な字数がじゃんじゃん減る減るーう♪(ま、連投コメのワザも有りってことで!ノープロブレム!←かつておいらのブログには連コメワザで意見書いてくれる常連さんがいたりしたのをふと思い出したー。エキサイトも字数セコイんだよなあ・・・)
確かに夫婦がアンを育てれば事情は違って来たでしょうね。そういう切り口で考えたことなかったです。ふむふむ。しかしホントに私は物覚えが悪くてモンゴメリの伝記読んだことある・・・はずだが詳細を記憶していない。
ちなみにキャンディの原作者、なぎたさんのフェイバリット☆バイブルとも呼ぶべき児童文学こそ、赤毛のアンだそうです。なるほどねえ〜って感じしますわ。あ、なぎたさんも海老型だよ。海老って空想癖すげーらしーとはよく聞くが、おいらにはあてはまるかも。へへへ。
URL|P君 #dNm2mw72[ 編集]

2007-06-16.Sat 17:56
どうでもいいけど、高板飛び込み?で体を丸めて飛び込むのを『海老型』って言うんだよね、たしか。
「前方三回転 海老型」とかってさ。
いやあ、猫背なのかな、って一瞬考えちゃった。

そういえば、少女漫画の少年物?の原型に、ケストナーの『飛ぶ教室』があるって話をどっかで読んだことあるな。
URL|イオ #O5mp8qzk[ 編集]

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